先日、僕のブログを読んだ先生から批判をいただいた。
「ブログを読むと少しへこみます。自分がどれだけやっていないかを考えてしまうから」
悪いことをしました。表現力が未熟で、僕の思いとは違った捉えをさせてしまいました。
僕たちは何のプロか?
僕のブログなので、僕の思いをここではっきりと書こうと思います。
若い先生方は、給料をもらっているので教育のプロであることには違いありません。しかし、教育のプロとして、給料相当分の技術をもっているとは考えていません。当然、僕が教員になったときの技術もお粗末でした。
技術をもっていない、実践をしていないことを恥じるべきではありません。
恥じるべき言動は、「自分は先生であると、偉そうにふんぞり返ったり、教員免許があることと、教育技術をもっていることを同等と考えたりして、学ぼうという謙虚さがないこと」だと思います。それは、僕にとっても同じことです。
生徒に自分の姿を見せる
担任と生徒は同じ立場にはありません。ただ、子は親を見て育つように、生徒は担任を見て育つものです。だから、担任が謙虚に学び続ける姿を見せればよいのではないだろうか。
それは、実際に学んでいる姿を見せるのではなく、生徒の見ていない所でも構いません。生徒は担任が謙虚に学んでいることを感じることができます。
担任している生徒たちが、いい思いをするように、いい経験ができるように、たくさん成長するように、頑張ることです。
要するに、学びを見せることも教育であるということです。
企業では、投資の時期
以前、僕は企業に勤めていました。そこで上司から「5年目くらいまでは、投資の時期。君たちが会社に利益をもたらすとは思っていない。早ければ5年。できれば10年目くらいまでには利益をもたらしてくれればいい。それまでは、謙虚に学べ。」と言われたのを今でも覚えています。
どの組織でも同じようなことです。
学生から社会人になり、すぐに給料をもらいます。お金を稼いでいるように思うが、それは錯覚なのです。物やサービスを売って、お金をもらっているのは、企業であり、社会人になりたての人がお金をもらっているわけではありません。社会人になって5年目くらいまでは、学ぶことで給料をもらいます。
教員も同じ。学生から教員になって、すぐに給料をもらいます。しかし、給料に見合った仕事(生徒にいい思いをさせたり、成長させたりすること)ができるようになるまでは、時間がかかります。
企業人も教員も同じです。若いうちは、謙虚に学ぶことで給料をもらいます。言い換えれば、「学ぶプロ」なのです。
働き方改革を進める中で
働き方改革を間違った方向に解釈してはいけません。単に仕事量を減らすとか、単に仕事をしている時間を減らすことではありません。
単に仕事量や仕事時間を減らすと、当然、今までよりも成果は少なくなります。
スポーツ科学が未熟であった頃と今を比較すれば分かりやすいでしょう。
以前は、根性論がはびこり、練習量や厳しさが成果を残す唯一の方法のように考えられていました。しかし、スポーツ科学が発達した今は違います。科学的にポイントをおさえて練習することの大切さが理解されてきました。
量と時間をかければ成果が出るわけではないということです。ポイントをおさえて練習すれば、量と時間をかけずとも成果を出せます。花園常連校になった静岡にある聖光学院のラグビー部は週3回、1時間の練習量であることで、以前話題になったことがあります。量から質への転換が上手くいったのです。
僕たちの仕事も同じようなものです。
ただ生徒のためにガムシャラに仕事をして成果を出していた働き方を、ポイントをおさえて生徒を成長させていく働き方に転換しようということです。
だから、そのポイントを学ぶべきだと言っているのです。
少しだけ実践してみてほしい
このブログでは、上記のポイントを示しているつもりです。
このブログで紹介していることが全て正しく、どの学級でも成果を上げることができるとは限りません。
生徒の実態と、担任の先生のキャラクターを考えて、この方法なら合いそうだなというものを、無理のない程度実践することから始めてほしいのです。
その中に、自分にフィットするものがきっとあります。そうすれば、生徒の成長と働き方改革の2つの成果が期待できます。
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