「問題行動への指導なら、自分に任せてください」
そう自信をもって話す教師がいます。
子どもを強い口調で叱り、泣かせ、萎縮させる。子どもが反論せず、「もうしません」と言えば、指導ができたと思っている。
しかし、子どもは本当に自分の言動を振り返っているのでしょうか。
教師を怒らせないように、教師の望む言葉を返しただけかもしれません。表面上は従っていても、心の中には反発が残っているかもしれません。
心理学では、行動の自由を強く脅かされたと感じると、それを取り戻そうとする「心理的リアクタンス」が生じるとされています。
また、神経科学者のエイミー・アーンステンは、制御できないストレスによって、判断や認知の柔軟性などを担う前頭前野の働きが低下しやすいと論じています。
恐怖の中にいる子どもは、自分を省みるより、目の前の怖い時間を早く終わらせようとするのかもしれません。自分の言動や責任と向き合うためには、責任を曖昧にしない一方で、落ち着いて考えられる心理的な余白が必要です。
一方で、こんな教師もいます。
事情を聞いた。
事実を確認した。
悪いことを注意した。
謝罪について話した。
家庭にも連絡した。
「必要なことは、すべてやりました」
確かに、必要になることの多い対応です。
しかし、それだけで問題行動への指導ができたとは言えません。
例に挙げた二人の教師に共通していること
子どもを怖がらせる教師と、決められた対応を着実に行う教師。
一見すると、まったく違います。
しかし、どちらも「教師が何をしたか」で指導を考えている点では同じです。
大きな声で叱った。
事情を聞いた。
事実を認めさせた。
謝らせた。
家庭に連絡した。
教師がするべきことを終えれば、指導も終わったことになってしまっています。
そこには、指導後に子どもがどうなっているかという視点がありません。
問題行動への指導には、どんな目的があるか
もちろん、問題行動は止めなければなりません。
傷ついている子どもがいるなら、その子の安全と安心を最優先にする必要があります。学校として必要な事実を確認し、責任について考えることも欠かせません。
しかし、問題行動を止めることは、指導の目的ではありません。
本当に目指したいのは、問題行動をした子どもが、
自分は何をしたのか。
相手にどのような影響を与えたのか。
なぜ、そのような言動を選んだのか。
どのように責任を取るのか。
関係をどう修復していくのか。
これから、どのように生きていくのか。
こうしたことを自分で考え、行動を変えようとすることです。
子どもを黙らせることと、子どもが自分を省みることは違います。
謝罪の言葉を言わせることと、責任の取り方を考えることも違います。
決められた手順を踏むことが、指導ではない
問題行動が起きたときには、
事実を確認する。
反省を促す。
謝罪について考える。
家庭へ連絡する。
といった手順が、当然のものとして語られます。
もちろん、必要な場面はあります。
しかし、これらは目的ではなく手段です。
子どもが自分を省み、責任を取ろうとし、関係を修復し、生活を変えようとしているのであれば、必ずしも決められた順番ですべてを行う必要はありません。
本人がすでに自分の責任と向き合っているなら、教師が改めて反省の言葉を言わせる必要がないこともあります。関係の修復に向けて自ら動き始めているなら、教師が形式的な謝罪を求めることが、かえってその動きを妨げる場合もあります。
反対に、すべての手順を終えても、子どもの中に何の変化も起きていなければ、指導ができたとは言えないでしょう。
安全の確保や権利への配慮、組織として必要な対応は欠かせません。
その範囲の中で、教師の働きかけは、目指す子どもの姿に応じて選び直してよいのです。
教師が失敗を裁くのではなく、子どもが自分を省みる
以前、問題行動をした子どもへの関わりが見事な先生がいました。
その先生は、すぐに説教を始めませんでした。多くの時間を、子どもの話を聞くことに使っていました。
何があったのか。
どんな気持ちだったのか。
なぜ、そのような言動になったのか。
子どもの話を聞きながら、行動の背景にある考え方や感情を整理していきました。
行動を正当化するためではありません。
本人が自分の言動と向き合い、自分の責任として考えられるようにするためです。
そして、最後に問いかけます。
「そういうこともあるよな。それで、これからどうする?」
その問いによって、子どもは教師から答えを与えられる側ではなく、自分の次の行動を考える側になります。
問題行動への指導とは、過去の失敗を裁いて終わることではありません。
失敗を入口として、子どもが自分を省み、次の行動を選び直せるようにすることです。

家庭連絡は、終わりの手続ではない
家庭への連絡も、学校が行った指導を報告するだけの手続になりがちです。
しかし、家庭連絡の目的は、「こんなことがありました」と伝えることではありません。
子どもが自分の言動を振り返り、今後の生き方を考えていくために、学校と家庭が同じ方向を向くことです。
「今回のことで、お子さんはこんなことを考えています。私も支援しますから、一緒に見守ってください」
そのように、子どもの成長を共に考える関係をつくることが大切です。
指導できたかは、教師の行動ではなく、子どもの変容で考える
問題行動への指導で問われるのは、教師が何をしたかではありません。
指導後に、子どもがどう変わったかです。
自分の言動を振り返ったか。
相手への影響を考えたか。
責任を取ろうとしているか。
関係を修復しようとしているか。
生活や行動を変えようとしているか。
叱ることも、事情を聞くことも、事実を確認することも、謝罪を促すことも、家庭に連絡することも、すべて手段です。
手段を実行したことを、指導の成果にしてはいけません。
問題行動への指導とは、教師が問題を収める仕事ではありません。
子どもが自分を省み、責任と向き合い、次の生き方を選び直せるようにする仕事なのだと思います。
参考文献
- Christina Steindlほか「Understanding Psychological Reactance: New Developments and Findings」
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC4675534/ - Amy F. T. Arnsten「Stress signalling pathways that impair prefrontal cortex structure and function」
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC2907136/
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