教師は、「何をしたか」ではなく、「子どもにどんな姿が表れたか」を問う

教師は、「何をしたか」ではなく、子どもに何が表れたかを問う

「指導はしたんです。」

学校では、よく耳にする言葉です。

確かに、その先生は指導したのでしょう。話を聞き、助言をし、プリントを配り、保護者に連絡をした。

でも私は、その言葉を聞くたびに疑問を抱きます。

「その指導で、子どもは変わったのでしょうか。」

もし変わっていないのなら、その指導は本当に子どもに届いたと言えるのでしょうか。

教師は、指導したことに責任を負う仕事ではありません。

子どもにどんな姿が表れたか。

そこに責任を負う仕事です。

ところが学校では、「何をしたか」を語る場面は多くても、「子どもにどんな姿が表れたか」を語る場面は意外と少ないように感じます。

目次

子どもの姿から、自らの指導を振り返る

例えば、期限を過ぎてから高校のオープンスクールの申込書を持ってくる生徒がいました。

「あの子は期限を守らない。」

「保護者もしっかりしてほしい。」

そんな言葉が職員室で聞こえてきます。

もちろん、その気持ちは分かります。

しかし、本当に考えるべきことはそこでしょうか。

この場面で教師が目指していたのは、

期限を守れる子どもに育てること

だったはずです。

もし守れなかったのなら、

情報提供は十分だったのか。
保護者と相談する必要性を伝えられていたのか。
本人は期限の意味を理解していたのか。

教師が考えるべきなのは、生徒や保護者を責めることではありません。

目的としていた子どもの姿が表れなかった原因を、自らの働きかけに求めることです。

「やったこと」ではなく、「子どもの姿」を見る

生徒会役員選挙でも同じです。

実現できない公約を掲げた生徒がいました。

「実現できないことは伝えたんです。」

「付箋も貼りました。」

「赤で修正もしました。」

これらはすべて、教師がやったことです。

でも、本当に問うべきなのは、

生徒は、生徒会役員としてできることを理解できたのか。

ということです。

理解できていなかったのであれば、

説明の仕方が適切だったのか。
確認は十分だったのか。
リハーサルを行う必要はなかったのか。

子どもの姿を見れば、次に考えるべき手段までも見えてきます。

実力ある教師ほど、

「自分は何をしたか」

ではなく、

「子どもにどんな姿が表れたか」

を見ています。

教師が見るべきなのは、自分の努力ではありません。

子どもの姿です。

子どもの姿が変わらなければ、働きかけを見直す。

また子どもの姿を見る。

その繰り返しが、子どもの成長につながります。

子どもの成長から逆算する

私は一般企業で働いた経験があります。

企業では、お客様は、こちらがどれだけ努力したかには関心をもちません。

関心があるのは、

自分に価値が届けられたか。

それだけです。

学校も、本質は同じです。

子どもや保護者が求めているのは、

先生が頑張ったことではありません。

子どもが成長することです。

子どもたちにとって、万能な指導法はありません。

同じ言葉でも伝わる子もいれば、伝わらない子もいます。

だからこそ、

「この方法をやった。」

で終わってはいけません。

目の前の子どもに、どんな姿を実現したいのか。

その姿から逆算し、最もよい手段を考え続ける。

それが教師の専門性です。

教師が責任を負うのは、

「何をやったか」ではありません。

「子どもにどんな姿が表れたか」です。

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