『させる』アレルギーになりましょう―その言葉の裏に見える教師の考え方

目次

「○○先生に、授業を公開させればいいよ」

もし、自分のいないところで、上司や同僚がこんな話をしていたら、どう感じるでしょう。

僕なら、嫌です。

「僕の意思は?」
「どうして勝手に決めるの?」
「僕は、あなたの思い通りに動く人という位置づけなの?」

そんなことを思うでしょう。

ところが学校では、

「○○君に仕切らせよう」
「A班に掃除をさせればいいよ」
「とにかく顔を上げさせよう」
「ちゃんと謝らせて」

こんな言葉を、僕たち教師は何気なく使います。

自分が「させられる側」になると嫌なのに、子どもには使っている。

なぜでしょう。

僕は、「させる」という言葉を聞くと引っかかります。

一種の「させる」アレルギーです。

「させる」の言葉の裏に見える考え方

僕が問題にしたいのは、日本語の使役表現ではありません。

気になるのは、その言葉の裏にある考え方です。

「○○君に仕切らせればいい」
「A班にやらせればいい」
「ちゃんと謝らせよう」

こうした言葉の奥に、

「自分が望むことを、この子にやらせればいい」

という考え方が入り込んでいないでしょうか。

教師が思い描いたとおりに動く。
教師が望む言葉を言う。
教師が納得する態度をとる。

そこに、その子の思いや意思はどれくらいあるのでしょう。

もし、自分が職場で、

「○○先生にやらせればいいよ」

と扱われていたら、僕は自分が一人の人間として大切にされているとは感じません。

それは、子どもだって同じではないでしょうか。

まして僕たちは教師です。

子どもたちの成長を支えることを仕事にし、その仕事に責任を負い、対価を得ています。

その教師が、子どもを自分の思いどおりに動かす「コマ」のように見ていていいのでしょうか。

同じ「させる」でも、違うことがある

では、「させる」という言葉を使ってはいけないのでしょうか。

僕は、そうは思いません。

たとえば、こんな教師同士の会話です。

「彼にもう一度、司会をさせたい。この前、司会がうまくできなくて、本当に悔しがっていたでしょう。ここでもう一度挑戦して、やり切ることができたら、彼の自信につながると思うんだ」

僕は、この「させる」には、あまり違和感がありません。

見ているものが違うからです。

教師が見ているのは、自分の都合ではありません。

その子のこれまでの経験や思い、その先にある成長です。

もちろん、「成長のため」と教師が考えれば、本人の意思を無視して何でもやらせてよいわけではありません。

本人はどう思っているのか。
もう一度挑戦したいと思っているのか。

そこも大切にしたい。

だから、大切なのは「させる」という一語を禁止することではないのです。

その言葉を使ったとき、自分は相手をどう見ているのか。

そこを問い直すことだと思います。

言動の奥にある心は、意外と伝わるもの

教師同士の会話なら、子どもには聞こえていないかもしれません。

では、陰で、

「○○君にやらせればいい」

と思っていても、子どもには分からないのでしょうか。

僕は、そうは思いません。

人をどう見ているかは、日々の言葉や態度に表れます。

話をどこまで聞くのか。
失敗したときにどう接するのか。
本人の思いを尋ねるのか。
待つのか。
一方的に決めるのか。

そうした小さな関わりの積み重ねから、

「この先生は、自分のことを考えてくれている」

と感じることもあれば、

「結局、この先生は自分を思いどおりに動かしたいんだ」

と感じることもあるのではないでしょうか。

僕は、そういう心は、いつか子どもに見透かされると思っています。

教育心理学の研究でも、教師の関与や自律性を支える関わりは、子どもの学習への意欲や関与に影響し、子どもの側の意欲もまた教師の関わりに影響するという双方向性が報告されています。[1]

また、人は自分の自由を奪われたり、誰かに動かされようとしていると感じたりすると、反発することがあります。

心理学では、こうした反応を「心理的リアクタンス」と呼びます。近年のメタ分析でも、自由を強く脅かすような言葉は、怒りや否定的な思考、心理的リアクタンスを高める傾向が確認されています。[2]

大切に扱えば、必ず応えてくれる。

そんな単純な話ではありません。

それでも、

相手をどう扱うかと、その相手がどう応じるかは、無関係ではない。

僕はそう思います。

子どもだって同じです。

「させる」と言ったとき、自分の中を見てみる

だから僕は、「させる」という言葉が自分の口から出たとき、少しだけ自分の中を見てみたいと思っています。

「○○君に発表させよう」

――なぜ、この子に発表してほしいのでしょう。

「反省させよう」

――教師が納得する言葉を言わせたいのでしょうか。それとも、この子自身が自分の行動を振り返り、次は変えたいと思うことを願っているのでしょうか。

「司会をさせよう」

――集会を予定どおり進めるためでしょうか。それとも、その経験を通して、この子に育ってほしいものがあるのでしょうか。

同じ「させる」でも、その裏にある考え方は違います。

だから、僕は言葉だけを直したいわけではありません。

言葉の奥にある、自分の相手の見方を点検したいのです。

だから、「させる」アレルギーでいたい

冒頭の話に戻ります。

もし、自分の知らないところで、

「○○先生にやらせればいいよ」

と言われていたら。

僕は嫌です。

自分を一人の人間ではなく、誰かの都合で動かす存在として扱われている気がするからです。

だったら、子どもに対しても同じです。

子どもは、教師の思いどおりに動かすための存在ではありません。

一人一人に、思いがあります。
意思があります。
これまでの経験があります。
これからの成長があります。

だから僕は、これからも「させる」という言葉に敏感でいたい。

「させる」という言葉が出たとき、自分の中に小さな警報が鳴る。

「僕は今、この子を一人の人間として大切に見ているだろうか」

と問い掛けるために。

僕は、そんな「させる」アレルギーでいたいと思っています。


参考文献

[1] Skinner, E. A., & Belmont, M. J. (1993). “Motivation in the Classroom: Reciprocal Effects of Teacher Behavior and Student Engagement Across the School Year.” Journal of Educational Psychology, 85(4), 571–581.
https://doi.org/10.1037/0022-0663.85.4.571

[2] Li, Z., & Shi, J. (2026). “Message effects on psychological reactance: meta-analyses.” Human Communication Research, 52(1), 38–52.
https://doi.org/10.1093/hcr/hqaf016


あわせて読みたい記事

シェア頂けると嬉しいです!よろしくお願いします!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次