教師の判断は、「軸」から生まれる

私は、研修会や実践発表会で、いつも少し物足りなさを感じています。

多くの発表では、「私はこんな実践をしています。」と言いながら、その先生の実際に動いた取組の紹介に多くの時間と紙面が使われます。

もちろん、それが悪いとは思いません。

しかし、本当に共有してほしいものは、そこではないのです。

私は、その取組を生み出した先生の**「軸」**まで含めて発表してもらいたいのです。

例えば、ある先生がこんな発表をしたとします。

「私は毎日、子どものよい姿を見付けてほめ、それを木の実に書いて教室へ掲示しています。よい姿が増えれば、木に実がたくさんなっていきます。」

聞いていた先生は、

「なるほど。温かい学級になりそうだ。」

と思います。

そして翌日から、同じように子どものよい姿を見付けてほめ、木の実に書いて掲示し始めます。

でも、思ったような学級にはなりません。

それは当然です。

発表を聞いて、先生の取組だけを真似したからです。

本当に共有すべきだったのは、

「木の実を掲示しています。」

ということではありません。

その先生は、なぜ木の実を掲示していたのでしょうか。

実は、その先生には一本の軸がありました。

「子どもは、学級や仲間のために行動することで、『温かい学級は自分たちでつくれる』という成功体験を積んでいくことが大切である。」

そんな考えがあったからです。

だから、その先生は、子どもの「よい姿」なら何でも取り上げたわけではありません。

テストを頑張ったこと。

字がきれいに書けたこと。

縄跳びが上手になったこと。

もちろん、どれも価値があります。

しかし、その先生は木の実には書きません。

木の実に書くのは、学級や仲間のことを思って行動した姿だけです。

なぜなら、ほめて伸ばしたいのは、その元にある心だからです。

つまり、その先生には、

「何を取り上げるか」

だけでなく、

「何を取り上げないか」

という判断基準があります。

その判断基準を決めているものこそ、先生の軸なのです。

そして、掲示は目的ではありません。

その軸を子どもたちへ伝え続けるために選ばれた、数ある手段の一つです。

だから、掲示でなくてもよかったのです。

学級通信でもいい。

朝の会でもいい。

友達同士で紹介し合う時間でもいい。

教師のキャラクターによっても、

子どもの実態によっても、

方法はいくらでも変わります。

しかし、軸は変わりません。

私は、取組を真似することによる教育効果は小さく、その取組を生み出した軸を理解することによる教育効果は大きいと考えています。

まず理解すべきなのは、先生が行った取組ではありません。

その取組を生み出した軸です。

その軸を理解した上で、自分のキャラクターや子どもの実態に合わせて教育活動を創造していく。

その結果として子どもに教育効果が表れたとき、その取組は初めて意味をもちます。

だから研修会や実践発表会では、

「私はこんな取組をしました。」

よりも、

「私はこう考えている。だから、この取組を創りました。」

という考えの部分に、もっと時間と紙面を使ってほしいのです。

聞き手もまた、

「その軸なら、自分ならどんな教育活動を創れるだろう。」

と考える。

そんな研修になれば、実践交流は方法を学ぶ場ではなく、教師が教育を深く考える場へと変わっていくのではないでしょうか。

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