人は、自分の思いどおりに相手が動くと、気持ちがよくなるものです。
教師も例外ではありません。
「座りましょう。」
「静かにしましょう。」
「始めます。」
子どもたちが指示どおりに動き、学級が落ち着いていく。
教師として心地よさを感じる瞬間です。
それは、人として自然な感情でしょう。
だからこそ、教師は気を付けなければなりません。
その心地よさに酔ってしまうと、いつの間にか「指示を出すこと」や「子どもを指示に従わせること」自体が目的になってしまうからです。
しかし、教師の仕事は違います。
教師の仕事は、子どもを従わせることではありません。
子どもが成長するよう働きかけることです。
指示は、そのための手段にすぎません。

「教師が指示を出し、子どもが従う」ことには意味がある
例えば、卒業式です。
私が最初に考えるのは、
「子どもたちが、一生に一度の卒業式を、みんなで最高のものにしようという思いで取り組めるだろうか。」
ということです。
「やらされる卒業式」ではなく、
子どもたち自身が、「みんなでつくる卒業式だ」と思えるようにしたい。
そのために、自分には何ができるだろう。
そう考えると、号令の掛け方も変わってきます。
私は、「起立」「礼」を歯切れよく命令するようには言いません。
心の中では、
「みんなで立とうね。」
「みんなでそろえようね。」
と思いながら、
「……起立。」
「……礼。」
と、落ち着いた声で号令を掛けます。
そして、その思いを子どもたちにも伝えます。
「先生が命令しているように聞こえたら、『先生、ちょっと偉そうだよ。』って教えてね。」
すると、
「司会なんだから、それくらい強く言ってもいいんじゃない?」
「先生、気を遣いすぎだよ。」
そんな声が返ってくることもあります。
でも、そのやり取りが私は好きです。
子どもたちは、号令に従うことだけを考えているのではありません。
みんなで最高の卒業式をつくる。
そのために、一人一人が自分の役割を果たそうとしている。
そんな前向きな空気が、少しずつ学年に生まれていきます。
卒業式で感動するのは、礼がそろっているからではありません。
一人一人が、「みんなで最高の卒業式をつくろう」という思いで、その号令に応えているからです。
だから私は、号令の掛け方も、子どもたちがその意味を感じられるようにするための一つの手段だと考えています。
指示に従う「意味」を語る
この価値を理解している教師は、
「指示に従いなさい。」
とは言いません。
「みんなでよい卒業式をつくりたい。そのために、この指示に合わせてみよう。」
と語ります。
すると、子どもの行動は同じでも、その理由は変わります。
「怒られないように従う。」
ではなく、
「みんなでよい卒業式をつくるために協力しよう。」
になります。
教師が変えようとしているのは、子どもの行動だけではありません。
子どもが、その行動を選ぶ理由です。
教師が育てたいのは、指示に従う子どもではありません。
指示に従う意味を理解し、自ら仲間と協力しようとする子どもです。
教師は、その価値を理解しているだろうか
教師の仕事は、指示を出すことではありません。
子どもの成長や集団の成果を実現することです。

だから教師自身が、「教師が指示を出し、子どもがその指示に従う」という営みの価値を深く理解していなければなりません。
その価値を理解している教師だからこそ、子どもにも「なぜ、この指示が必要なのか」「なぜ、この指示に従うことが大切なのか」を語ることができます。
私は、ときどき自分自身に問い掛けます。
私は、子どもの成長のために指示を出しているだろうか。
それとも、いつの間にか、子どもを指示に従わせること自体が目的になってはいないだろうか。
教師は、指示を出す立場になることが多い仕事です。
だからこそ、その心地よさに酔いやすいのだと思います。
だから私は、これからも「子どもの成長のための指示になっているだろうか」と、自分自身に問い続けていきたいと思っています。
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